言語文化演習(アジアから見た日本)

27日にね、座間味村に上陸したからですよ、みんなの(      ?)山に、避難小屋に作って、荷物も皆運んで、ニュースが悪くなったらまた避難しに行ったりしてましたけど、3月27日に座間味村に米軍が上陸したよーって、話に聞いたから、あれから皆騒いでですよ、もう、、で、アサト巡査と駐在さんがあさとさんとで(?)、来ていましたから、来ると役場の役員、役場職員5名、5,6名ぐらい残って、残りみんな防衛隊と軍隊に没収(募集?)されて、住民守るために5名、5,6名ぐらい役所の職員が残っていましたので、アサト巡査とって、またヤンバルのかたこっちに、あのーなにかねぇ、巡査が駐在さんがいらっしゃっていました。うちもだちが分からんが、この人たちが、あはれんの住民、もう座間味にみんな、座間味村に米軍が上陸したから、この方たちが皆のあはれんの住民は、渡嘉敷に連れてきてるんですよ、渡嘉敷の住民はほとんどまた恩納河原の河原ですねー、谷底に避難していました。あちこちに避難はしていました。ほとんどの人も向こうの恩納河原の谷底に避難していましたのに、避難小屋作って、からもあはれんの人が皆も晩9時10時頃日暮れからきてるんですよ、もうこっちに集まって、から壕に皆隠れてるのに、皆壕から出てなさいよー、とかもう、こっち残ってはいけないよー、して、だからこういう話が皆聞こえてから、皆壕から出てきてですね、あの避難小屋から出てきてあのあはれんの住民も、出てきたのかも、自分たちが分からんけど、皆先頭の人の後から付いてきなさいして、言われて、先頭の人も役場とこのあっせん(←あさと?)巡査たちとも軍隊と相談していた、     赤松隊長、部隊とは。 で、皆のなにかねー、カーシーガ、向こうのカーシーガーラで向こうの山場から降りてきて、上にあがってまた今の青年の家の方の赤松隊長の壕があるところの谷底ですね、こっちに皆入っ、行ってるんですよー。こっちあっちまた行けない住民が集まってもう自分たちはもう弾打ち込まれるとて、で住民は向こうに行きなさい行きなさいして、追われたから、から前の人が歩く人のあっ、後ろから付いて歩いたのが、あのー、ジシップのカーシーガーラの谷底に皆集まってるんですよ。向こうからも座間味の沖縄の座間味のけらま海峡もまっすぐ見えますけど、上からもう(かんさいき?)がボーボーボー飛ぶしてて、で皆こっちに28日の夜ですねー、あのー、27日の晩ですー、もう10時12時夜中頃なっていたはず、夜からもう皆前の人の手つないで歩いて、あっちに行って避難してるのが、夜明けたから28日10時頃か、12時頃から昼間後に、防衛隊が集まってきてるんですよー、部隊に募集されてる防衛隊が集まってきて、住民が避難してるとこに集まってきて、もう何かと思ったら、手りゅう弾持ってきてですねー、部隊から皆の殺して自決させる手持たされてして、島の防衛隊皆集まってきて、手りゅう弾は持ってきてるんですよー。これから皆騒いでですよ、もうどうするかね、もう自決、あの玉砕せいと話をしたから、皆めいめいあの身内同士の。身内同士の、2,3か所ぐらいずつの人たちが一つの手りゅう弾で殺されるとですよ。で、自分たち身内親戚同士2,3か所ぐらいずつ集まって、自分たちは3か所、で12名でした。でもあっちこっちのあはれんの人も住民の人皆、カーシーガーラに集まってきて、

 

*注釈

3月27日 午前9時8分から9時34分の間にアメリカ軍が上陸

アサト巡査 安里喜順さんは当時29歳であり、村の駐在巡査であった

ジシップ カーシーガーラの下流を指す?

 

 

 

曽野綾子 『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』 WACBUNKO 2006

曽野綾子 『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』 PHP文庫 1992

沖縄タイムス社 『沖縄戦記 鉄の暴風』 沖縄タイムス社 1980年

 岩波書店編『記録・沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店、2012年)

謝花直美 『証言 沖縄「集団自決」-慶良間諸島で何が起きたか 』 岩波書店 , 2008

 防衛研修所編『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』(1968年)

アメリカ陸軍省戦史局編 喜納健勇訳 『沖縄戦 : 第二次世界大戦最後の戦い』 那覇 : 出版舎Mugen , 2011

防衛隊が運が悪い方のしんかいが投げても破裂しなかったみたい、自分たちの二人の防衛隊お兄さんたちがしんかんのおいでですよ、投げたから爆発してばんざいしてる男はみな5名は即死して。もう死ぬのも怖い子供と自分たちこんなんしてるのをいきいてるですよ。これからあともうみんな騒いでですよ。どーするかーどーするかーしてもうころしてやれよーころしてやれよーして避難してる道具を持ってみな殺し合い棒で殺し合いしてるですよ。もう殺されるのも怖いししてみなまた山に逃げるのもいるししてですよ。だからみなにげるよー、自分たちも12名から5名は死んで、7名はいきいていたから、3か所の家族で、みなにげるをしたら棒でうしろからたたかれるのもいるし。。怖くてですよ、たたきあいして、持ってるまたナイフをナイフやらなたやらアメリカみたら、頭悪かったはずです日本人。こんなあのなたでアメリカ殺しとってなたもかついで避難していましたから。もうなにかねーあれちょうど竹やりと同じなたをもって歩いてきたのこのぐらいの考えしかなかったか これでみな殺し合いしてですよ、もう自分たち怖くて逃げるのもいるし、もう騒いでこっちで殺し合いするのもいた。もうどうしようも殺されるのも怖い死ぬのも怖いのに、人を抵抗して、いっかい残っている人たち大騒ぎして親も子もめいめいはなればなれして、お母さんはもうお父さんたち爆弾で撃たれてみな手りゅう弾で撃たれて即死してる。血が頭にみなとのいできてどろどろしてる。眼も悪くなってお母さんの手をつないで、人が歩くうしろから自分たち16でしたから。あるいていったら、本部の谷底にみなおりてるですよ。こっちでもまた日本軍にたたかれてですよ。今の青年の家の野球場ですね、むこう谷底でしたから、電気屋の上のかわらのずっとかわの谷底。こっちにみな避難してるの、爆弾がきてるですよ 。友軍からの爆弾という人もいるし、アメリカの爆弾という人もいるし。まぁこれはわからんけど話が、でこっちでほとんどの人たちも倒れてるですよ。

あれからまた騒いでめいめい避難小屋にめいめい逃げてきて、もうこれから生き抜いてきてるんです、ようやくあっちこっちきて3月4月5月6月7月、3~4か月ぐらい山に避難して、あれからまたなにかね、軍がまたよ、上の人たちが言うのを聞かないで個人行動するのはみんな捕まえていって、人もみんな避難してですよ。こっちは無人島とって伊江島の人が半分はむこうやんばるに避難さしてもとぶに、半分は渡嘉敷無人島とって、アメリカの兵隊さんが連れてきたみたいこっちの部落に、5,6人名ぐらいの青年団がウンナガーラにきてるですよ避難場に。アメリカ、外人はとってもアメリカの兵隊は親切ですよ~、食べ物もたくさんみんないいようにくれますよ~って。青年隊がきてるのですよ5名、誰が、赤松 部隊に誰が行った話したのか連れて行ってですよ5名みんな。やって、一人は逃げるのよ。すりすしんとって、知念少尉が、船舶隊の隊長がいましたのにこの人を銃で撃ってるみたい一人は逃げるのよ。もうこんないろいろありました。日本軍は日本の兵隊は住民助けにはこない。住民殺しにきてるんですよいじめにね。

 

知念少尉 知念朝睦さんは元海上挺身隊第三戦隊本部付警戒小隊長であった。

もうこれ考えたら、怖くなってですよ。もう、、、向こうの見ました?白玉の塔。亡くなったりしてる人たちの塔。もう千人余りの住民から半分は亡くなって、ちょっとしか残って。あ、白玉の塔みたです?向こうに。あの亡くなってる人たち、玉砕場でみんな亡くなって、でも赤松隊長と島の村長、役場の職員5~6名とアサト駐在さん、みんな隊長と話し合いしてですよ。住民を殺してもだ。とにかくこりゃあもうわからんけど、こういう噂話がありました。赤松隊長の命令通り、村長も駐在さんも命令通り住民はいじめていると話が聞こえてきましたけど、だろうと思います確かに。みんなめいめい壕に避難して、もうどうもできなかったら、捕虜になってみんな助かりおったのですが、もうみんな集めたのが悪かったはずです、こりゃ、隊長が住民、捕虜になしたら、ばれてスパイになるからって、米軍に日本軍の情報話したら、自分たちはもうだめなるからって、住民はみんなやった。最初に座間味と渡嘉敷に上陸してから、あれからまた本島に、やんばるに上陸して、だんだんすり?に上陸して、なんぶにきて?島尻に避難してる人たちはみな、やんばるに避難、逃げていたそうです。もう怖いですよ。あんなことさせたらもう大変です。二度とあんな戦起こしたらもう。いまずっと、どこですか、新聞にありましたけど、向こうで戦争やっていますけどね。もう大変ですよ、もう。戦争のこと考えたら。もう10月こうしゅうから?避難してですよ、みな、ニュースが悪くなったら、避難して、ニュースが悪いよして話が来だして、玉砕場からみんな、自分たちの壕降りてきたら、自分たちが作ってるイモやらイネやらありましたから、これを掘ってきて、煮て食べたり、カマなどは避難小屋に持っていってましたから。で、向こう、自決場からおりてきてから、もう自分たちの避難小屋のある品物は、日本軍が朝鮮人もいましたから、こういうひとたちがやったーっていって食料もみなとられてですよ。朝鮮人が可哀想でしたよ。いじめられて。朝鮮の、なんですかあの、日本のいろいろ、品物運んだり、朝鮮人が相当来ていましたよ。ピーがいましたよ、七名ぐらい。Pは問題ありますけど。朝鮮ピーよ、七名いました。2.3名ぐらい亡くなって、残りは帰ったはずです。二人ぐらいは本島から。でも惨めな生活して歩くとお話も聞こえていましたけど、那覇で。あだちもいじめられていますよ日本兵に。もうこれいったら、だれもこんなことあまり発表はしない。みんな隠しているんですよ。こういう風に取材が来るときにしか、ちょっと話して、自分たち同士は、あまり話はしないです。

軍教育ですよ。あまり勉強はしなかったです。兵隊さんの

卒業してから、15,6、みんな畑仕事して、イモ作ったり軍の壕掘ったりして、子供の頃の学校からの先生たちの教育はみんな戦争の教育だけ

敵の爆弾怖くはないが、大人のことよく聞いて避難しなさいして、歌までありましたよ。

 

「敵の爆弾怖くはないが、いまはぼくたち小さいから大人のいうことよく聞いて騒がないで急がないで隠れましょう 入ってみましょう防空壕」

 

してこんなうた。ほとんどこんなうたでしたよ。

軍隊兵隊さんの。

あんな思い出は思い出したくないですね。

 

島の村長 古波蔵惟好氏

なんぶにきて 島尻 ??

朝鮮ピー ピーは慰安婦を意味する?

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