言語文化演習(アジアから見た日本)

渡嘉敷村 戦跡地図

結局下の川伝いにここまで上がってきたんですね。この、川伝いに山をあがっていけば、これは、そこらへん*1に日本軍のいる防空壕を作っているところに集まれると、こういうことはみんな承知していたと思います。

それで、27日の晩*2になんかワーワーしている、何かなー思うたな、と僕はよく記憶しているんですが、赤松隊長が北山に集まりなさいと*15、こう言っているよ、ということで、防衛隊員がですね、あちこちにこう回ってそれを連絡しているわけ。4km離れた阿波連*3にもそうやっている。阿波連と人達も同じように晩から移動を始めている。こっちに。もちろん、徒歩です、みんな。そういうふうにして、ここに集まってきたんですね。

んで、えー、ここに来る途中でね、記憶にあるのは、川伝いに来るもんですから、時々、道があるわけでもないので、僕は、あの、次女、大正11年生まれ、私は昭和13年生まれですが、大正11年生まれの姉がね、私の担当だったの。あの、女子青年団*4のリーダーの一人だったんですが、それが私の担当で、坂を上がる時はね、姉のね、こうなんていうかな、首にこうぶら下がって、「しっかりつかまえろよ、嘉勝」と言ってね、姉が上がるわけですよ、そしたら上がる時に木の根っこを摑まえてね、こうやるんですよね、その時にあの恐怖感みたいなものがインパクトとして残っていて、現在でも、あるんだと思うんですが、

この木がポキンと折れて、バンとやったら、後ろの私が頭を打って死ぬと、どうしようと、ひょこっと思って。(風の音)しばらくすると山の上でなんかやっていたんだと思うんですが、夜明けを待ったそうですが、これは覚えていません。ということは、子供だから寝ていただろうと思います。で、ずっと姉におんぶされて、おそらくはね、ここに来たんだと思います。

目が覚めたら、もう島の人いっぱい、ここでワーワーしている、そして、しかも艦砲射撃*5が始まって、あちらこちらにバンバンバンバンとやって、これを沖縄では鉄の暴風*6というんですね。木の葉っぱがバシバシっと切れて。そのなかで、みんなここでワーワーしていた。そのうちやがて、村長*7さんがなんかスピーチしていた、ほんでそれが終わって、天皇陛下バンザーイ、バンザーイ、バンザーイと3回聞こえる、やっていたとこれもよく覚えております。そのうちどこかで、玉がね、ババーンと手榴弾が爆発して、そしたらね、キャーという、いわゆる、漫画にも、こう、描けそうにもないような声がしたかと思うと、あちらこちらで、バンバンバンバンとやりだして、ガッガガッガ。

これはどういうことかと、民間の人達に手榴弾がもう渡っていたと。それから防衛隊員が、軍隊であるはずの防衛隊員*8が、ここにですね、数名来て、それを手助けしていると。私の義理の兄もそうです。長女と結婚して、長男がこんな大きなお腹の中に、6か月のおなかの中に入っていたんですが、そういう人たちがね、あれしながら、しかも3月の20日ごろ、23日が爆撃が始まる日*9、この3日ぐらい前にですね、えーっと、なんか兵器軍曹*10と呼ばれて、こう、当時の村長は代名詞を使っているんですが、この人が役場に来てね、手榴弾を配っているんですよ。うん、何発か*11。それを、当時の、この、役場職員とか、若い人たちがみんな持っていると。それでバンバンとやりだしている時に役場の職員だった、今度は、大正、いや、昭和3年生まれの兄*12が、パッと来て、我々はね、おそらく、ここら辺だったんじゃないかと、まさにね、そういうイメージなんですが、円陣組んで、パッと来てね、「じゃあ、僕らもやるよ」と言ってね、手榴弾を爆破させようとした。準備が始まったんですよ。バッとやって、円を描いて、どのぐらいだったかな、円を描いて、「じゃあ、やるよ」と言って、手榴弾をパッと抜いて、この前にバンと投げて、みんな円を描いてね、こうして、やっていました。ふつうね、5秒ぐらいすると爆発するそうだけど、爆発しなかったです。バッとやって。そうして、2つ持って来ていますからね、16歳にしかならない青年がね、あのー、やがて、もう一つもやってパシンと叩いてやったけれども、これも爆発しない。その時、2つの、大きな記憶があるんですが、父はね、「火を焚いて火の中にぶち込め」と。火の中で爆発しない爆薬はないと。こう言っていましたね。そういう意味のことを方言で言っていました。ところがね、前日はバケツで水をぶっかけられるような、土砂降りの中をこっちまで歩いてきて、3月28日夜が明けてね、その時には晴れてはいたんですが、もうずぶ濡れですからね、マッチなんかありゃしない。その時ね、この、母が叫んだんですよね、バーンと。この、火を焚いたり、なんかしようと、何か次の動作がね、始まらない前に、そん時私はね、前のめりになって、バンと、っていうことはね、母はね、僕をこっちに座らせていた、43歳の時の子*13ですからね、母のね。ほんで、兄が手榴弾を爆破させるとき、なにかー、あの、おそらく母は私を上から、こうやってね、保護していたと、おそらくは。というのはね、当時、後でね、気が付いてみると、背中にね、ぬくもりを感じた。なんで、お母さんのぬくもりを、背中にこんなぬくもりがあるのかな、とあるのと同時に、あれ、また、こちらに兄貴の手榴弾が爆発したら、お母さんが死んでしまって、母が死んで、自分が生き残るんだが。どうしよう、とそん時チラッと思った。うん、そういう時、パッとね、おそらくね、向こう側の斜面だったと思うんだが、まさに。ここに集まった時で竹とか色んなものはね、見通しのきくように、みんな色んな道具を持ってきていますからね、持てるだけの食糧を持って。我々は、私は、1年生に上がる時だったから、鞄の中に、油紙で包んだ、あの時ビニールはないから、砂糖と、それからこの渡嘉敷島は鰹漁が盛んで、誰がどうなるかわからないから、みんなに分担をしてね、鰹節を一つ、そんなかに、「鞄を持つな」と母に言われたけれども、「いや、持って行く」と言ってね、学校始まって鞄がなければ、どうするか、とか何とか言ってね、鞄持って来てね、ここに来た時は、もうそこは抜けて何にもなかったですよ。雨に打たれてね。当時の鞄は、厚紙なんですよ、外側はペンキ塗って、(風の音)それで、そういうふうにして、こっちきて、居ったんですけれども。

今のように自決が始まろうとして、次の動作をしようとした時、母がおっきな声で叫んだんですね。「勇助、この手榴弾捨てなさい」と、バーンとね。向こうのところを指さしてね、「あれ、いとこの兄さんは子供をおんぶするじゃないか。逃げる準備だよ」と方言でね。当時このあたりの人は、標準語でいこう、というのがあって、方言使ったらスパイ*14だと言われて、色々あったからね。ウチナーヤマトグチと言ってね、沖縄日本語といって、なまりの日本語を使っておったんですよ。方言でバーッと言って、「兄さんたちを追いなさい。死ぬのはいつでもできる。兄さんたち追いなさい」これがね、僕はずーっと耳にあれしてきて、自分の、その後のね、一生を非常に方向づけた貴重な一言だったと思います。

 

 

*1  → 上記地図の④

*2  →27日赤松隊長から北山に集まるように命令が下った。

*3  →  http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=127.36080256011&latitude=26.212317747436

*4    → 男女青年団 他に婦人会、翼賛壮年団員があった(鉄の暴風)

*5  → 空襲や艦砲射撃があった。

*6  →無差別に多量の砲弾が 撃ち込まれるさまを暴風と呼んだ。

*7 当時村長であった古波蔵惟好氏

*8  → 防衛隊員79名現地徴集された(渡嘉敷村ホームページより)

      島内の青壮年で組織された防衛隊員70人(沖縄タイムス社、1950年、鉄の暴風より)

*9  → 爆撃が始まるのは23日未明(鉄の暴風)

*10 ?役職名

*11 住民には自決用として32発の手りゅう弾が用意されていた、玉砕の時に追加で20発用意され計52発。

*12  → 昭和3年11月2日 一つ上の兄勇助さん

*13 ?

*14 スパイとして殺害された日本人もいた。

*15 → 「住民は捕虜になる恐れがある。軍が保護してやるから、すぐ北山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発したのは26日(鉄の暴風)

 

 

そして、8月15日*15は、そんときから少しも監視の人たちは日本軍はまばらだったんじゃないかとね、夜中にパッと*16。
天皇陛下のあの例の放送がやらない場合ね、我々は向かいの山の朝明け方に来て降りる、降りようとしているときに玉音放送*17ていうのを聞いたのよね。
ていうのは、みんなあの気を付けをしてからこれして(頭を垂れて)聞いていましたからね、天皇陛下の偲びがたきを偲び、耐えがたきを耐えて…(風音)
そういう風にして、生き延びてきて。
さっきのね、どうして防衛団員とかあんなひとたちが戦争のことをこれまで喋らなかったのかというと、この団員、この代表的なひとつのの例だと思うのですが、
さっきお話しました義理の兄は南方やね、中国での話はよく聞かせてくれました。中国のある●●*18に行ってどうのこうのって言ってね。
こっちはあのもともとお墓の中の年号などはみんな中国年号です。乾隆帝*19とかね、こういったような年号です。
なんかそうしたシーンがあったんでしょう、そういったような話もあったんです。
本来沖縄戦、渡嘉敷島の中国の話とかは一切やらなかった、うん。
というのは、命日のときにお線香をあげながらいろんな話をして、その妹さんが初めてねこんな話をしたの。
実はこの集団自決のときに手りゅう弾を爆発させようとしているとき、隣のおじさんが来て…。
一切戦争の話をしないのは、あの、防衛団員の中にはねここで自決した時になんていうのかなあ、実際に剣でこっちをね刺してるひとたちもいるんですよ。
というのは、昭和7年生まれのある兄さん*20は「手伝え」と言われてね、背中をこうやって、刺すと。こういうことが。
もしこの次刺した人が生きていたとする、これはねえもう大変だったと思うんです、戦後。
だから島の人たちの沈黙の裏にはこういったようなものがあったんだなあということをね、いろいろ情報収集してわかった。
で、誰も調べなかったでしょ、わたしがいろいろこの、うちの母は多くの人をこれしたと。
そして隣の姉さんが、お母さんがなんか「吉川のおばあちゃんは命の恩人だ」と。
なんで集団自決●●*21のときに、なんで、あのおばあさんがね、普通の若い人らでなくあのおばあさんがね、あの命の恩人かなあと。
わたしはあんたの話を聞いて初めて分かった。つって涙ぽろぽろ…流しているお姉さんもおったんですよ。
だから、そういうことになんかある種のまあ誇りのようなものが、あの、潜在意識としてあったから、まあこのような活動ができたのではないかと思ってます。
そういうときにたまたま銃弾が爆発しないで、父以外はみんなねここに来ていながら…●●
しかし、この集団をもってこっち来てみんなの前で爆発させようとした兄貴はですね、密航船*22で本土に高飛びしてるんすよ。
これは何かで見られたらわかると思うんですけど同級生の金城重明(ジュウメイ)君の先生は、同級生、この勉強の方はライバルだったんです。
非常に悲劇的なことを先生やってて、なんか終戦当時はもうふらふらして精神状態が普通じゃなくてね、そうやっていましたからね。
ああいうのを見て、見たりいろんなあれがあって、思い出したくはなかったんだと思うんですよね。
自分の手りゅう弾が爆発したから自分の仲間や家族みんなダメにしたんだと、いうね。
ま、『ナツコ 密貿易の女王』*23というのがあるんですが、うん、こっちはあの、サンフランシスコ平和条約が締結されない前まではね、これはもう密貿易のあの、メッカだったんで。
船がいろいろ入ってきたり、ここにたまたま船が、密貿易のね、入ってきて、あの、機関長が、このなんか沖縄本島に着けたら
本島のとこで飛び降りて、逃げて、機関長がいないとなって、親戚のおじさんが、機関長代わりにして船に乗って、時についでにパッと乗って*24、五年間音信不通、兄も*25。
なんかばれるとね、強制になんかされるというから。
しかも向こうでは朝鮮の方といろいろ韓国の人と一緒に会社を設立*26して、大きな会社に。そういったこともあったんですね。
あのいろんな島の人たちが、その、あるんですよ。
ちょっとね、あの、こんなところに、ここは雑木林に集めたと言っていますが、こんなところでこの人々が何をしたのかなあと。
そしてなんでこういう雑木林に日本軍は集めたのか、島民をね。なーんのあれもない。
この、新聞記者があるときパッと本土から来て質問したんすよね。
「吉川さん、こっちはガマはどこにあるんですか?」と。
沖縄本島ではね自然のガマという自然の壕の中にみんな隠れて、そして自決もここで行う。
ここは何もないですよ。雑木林。
だから、雑木林に人を集めて、うんぬんというのは9.22県民大会*27のところで私が喋って、それからあと、執筆者の人たちもね、雑木林に来たりなんかそういう。
ちょっと中をね、撮影して。
のことか鎌とかね、みんな持ってきてますからね、それが凶器になって。
考えられないですよね。こんなところにね、あんなところに。
もうちょっとしたところにみんな家族ごとあれをつくってやってます。
~みなさん、主体的に考えてみてください。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*15?

*16

*17

*18

*19 乾隆帝(1711~1799)中国・清朝の第6代皇帝の時代

*20?

*21

*22

*23http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167717476

*24

*25?

*26?

*27 2007年9月29日 11万人が集まった 県民総決起大会が行われた。(22ではなく29日?)

 

この渡嘉敷島はですね、島は小さいですけど、田んぼがありまして、それから戦前は畑は段々畑*28で山のそこらへんにありましたので、生活にはそう困らなかったですね。だからさつまいも作り、それから我が家は田んぼもたくさんありましたのでいっさい買わず米も自給自足できたと思います。子供で僕は8人兄弟の末っ子で、戦前は特別に孫みたいに父母から可愛がられて、とくに父は兄や姉たちには厳しかったそうですが、私には非常に優しかったですね。幼稚園は義務ではないので、幼稚園はなかったですね。それに私の生まれた頃には長男は大正5年*29生まれかな、日中戦争に行って亡くなっていたという家庭的な状況もあったと思うんですが、このやはり幼稚園生時代は自然相手のこの延長線というかな、とくに印象に残っているのは、渡嘉敷島はある時期は沖縄の3大カツオ産地*30の1つなんですよね。父も漁師だったんですが、たくさんとれるもんですから、製造場では頭をカットして、そして3枚おろしにして鰹節のぶんだけをとるわけですよ。あとはみんな捨てる。そしたら我々はそれをもらってお家に持ち帰ってカツオの頭を塩煮にしたり、おつゆにしたりして食べたのが印象深いですね。出汁として使って余ったものは豚のエサ、この島は半農半漁で、女の人たちは養豚業、我が家も親豚を養っていて子豚をいっぱいつくっていた。さつまいもは豚のエサ、その出汁つけにカツオのいろんなものを使っていました。昭和20年に沖縄戦*31が始まるわけなんですけども、その昭和20年9月に何の前触れもなく渡嘉敷島に軍隊が来ておりますね*32。役場職員の話を聞くと、ぱっと来て、「村長はおらんか、村長を呼びなさい」という風にして入ってきたということだから、渡嘉敷島の日本軍の駐留は事前に役場などにはおそらく細かい連絡はなかったと思われます*33。ぱっと入ってきたとき基地隊*34という基地建設のための従業員が1000名くらい入ってきたそうですがこの人たちは密かに渡嘉志久ビーチに基地をつくってさっと帰ったりしたそうです。ところが間に合わんもんだから役場、それから民間の大きな家には将校の位の高い兵隊さんが入ったと思います。我が家にも1人隊長さんが1番上の良いところで寝泊りしていましたね。おそらく2、3ヶ月だったと思うんですけどね。今思うと戦争のいろんな前触れみたいなものはあったと思うんですが、我々少年たちにはそういう切羽詰った感情は当時としてはなかったですね。いくつか印象にあるエピソードは、我が家は渡嘉敷島でも数少ない養蚕室の綺麗な瓦葺の家*35だったんですね。そしたらおそらく戦争が始まって養蚕も廃業させられたと思うんですが、そこが日本軍の倉庫にとられていたんですよ。その時1日に1、2回ずつ持ち込まれた会食というものをみんなに出していたと思うんですが、その時若い兵隊さんがぱっとパイナップルを床下に入れて、僕の顔を見て指で食べていいよって言ってくれたこともあったし、それから当時の赤松隊のお兄さんたちは、特攻艇に乗る特幹隊*36という人たちは重大です。当然酒は飲まなかったでしょう。そういうことで倉庫から酒を各寝泊りしているところに持っていったと思うんですけど、時々姉と2人で芋を知り合いのところに持っていくと、お返しとして一升の酒をもらったりしましたね*37。父親が酒好きだったからそっとあげたりしましたけどね。

それからすぐ隣に、うちの隣に従軍慰安婦の宿があります。これは僕のね、母の兄さん、そのおじさんのお家です。当時としてはね、家がきれいだったので、なんか、そこの住まっている、いとこ家族、おじさん家族はまた弟のところの二階建てに引っ越しさして、7名の従軍慰安婦*38が来たですね。ところが豚小屋そのものはそのまま置いてあったので、朝晩餌をやりに来る。その時いわゆる朝鮮人慰安婦たちに、なにか、現在でも辛いのが朝鮮の人たちはね、好きだとは思うんですが、渡嘉敷島も、そのような…沖縄のほうは中国や韓国なんかの影響だったと思うんですがね、唐辛子で刺身は食べていた。どのおうちにも唐辛子はあった。それを持ってきて、彼女たちにね、ぱっとあげる。そうすると金平糖をもらう。その金平糖がほしくてね、きたりしたけど。戦争が近づくと、唐辛子をあげても金平糖をくれなかったりしたね。もうそれからあげなくなったけどね。ははは。そういう点ね、なんかいくつかのね今でも記憶に残るエピソードはありますね。

まあお互いね、まあ偉い人たちとはともかく、普通の兵隊さんたちとはね、わきあいあいに島の人たちもやってて、だから戦争終わってぱっと来た時に、現在本土からこっちに嫁に来ている人たちが、戦争の時の集団自決の時の話ばかりしか聞いていないんで、その兵隊さんたちが島に来た時にそこのおかあさんが「あらあ、元気やったかねえ」とか抱きついているのを見て、びっくりして、どういうことなんだと言っていたわけなんですが。当時のうちの姉でもそうだったと思うんですが、女子青年団と若い皆さんは、非常に仲良しだったんじゃないかと思いますね。当時としては。ま、戦争が始まってからはもう厳しい状況が続いたんじゃないかと思いますね。

このね、19年に1010空襲*39があった、おそらくそれでは行かないということだったと思うんですが。各家庭防空壕は作っています。このね、すそなんかにはね、防空壕を、特にこのアリランなんかは3月21日にけがして1人亡くなるんですが*40、そのあとですね、我々は山に逃げるわけですから、その民間が放棄した壕を転々としてしばらくは…なにか民間人が残したものを食べて生き延びていたのだと思いますね。あの…集団自決が行われる27日*41。そこまではね、4.5日間。それで…あのー翌年になってさらに3月頃から沖縄戦が…こう始まるわけですが、それまでは、そこに食事をためる。そういったことをいろいろやってますねえ。そして、女子青年団などは、特攻艇秘匿壕づくりに駆り出されて、そこで穴を掘って、特攻艇を隠す壕を掘って、そこから出てくる土、石そういうものを運び出して、堆積するのは彼女たちの役目だったようです。現在、島の遺跡として指定しております特攻艇秘匿壕の隣はちょっと盛り上がったところがあるんですが、あちらこちらに。それは中から掘り出した壕の石ですね。そんな状況だったんじゃないかと、思います。

Q.壕を作ったというのは軍の指示で掘ったほうがいいということだったんですか?

いえ、島の人たちが壕掘りしたというのは、軍の指示とは関係ない。おそらくは日中戦争なんかから帰って、戦争体験のある人たちの指導でこうやったんじゃないかと。まあ、役場にそういった指示があったかということはよくわからないね。私には。我が家の壕もきれいなもんでしたよ。そうですね、長さは、優に3メートルくらいあったかね。それで食料品は、山の岩陰にやっていましたね。

 

 

 

 

 

*28  山や丘の斜面に段状につくられた畑。だんばた。

*29?

*30?

*31 沖縄戦開始は昭和20年3月から6月に行われた。

*32?

*33?

*34 基地隊 基地建設をする部隊

*35  瓦葺の屋根で綺麗な養蚕室のある家ということ。

*36 特幹隊 特攻艇に乗る部隊

*37

*38??

*39 昭和19年10月10日に沖縄本島において空襲があった。

*40?

*41 集団自決が行われたのは28日 329人が非業の死を遂げた

 

 

 

 

このね、人類は生きるためにこの世に生まれてきたと思います。それで、集団自決。これは一つの島で起こったことのように思われがちですけど、もちろん沖縄本島でもあちらこちらでもおこりましたけど、そのおおもとは、これは国家間のいわゆる戦争だ。うん。したがって、その国々の、この歴史や文化を大事にしながら、一番大事なことは、世界の人たちと、この仲良くすること。これが非常に大事じゃないかと思います。自分の国だけをうんぬんといって、こうやっていては、いつまでもまた同じようなことが繰り返されていくかもしれません。そのために、大事なことは、なるべく多くの若い人たちが、この外国生活、あるいは留学、あるいは旅行とか。ただ行って楽しむだけでなく、そこの歴史や文化を十分に学んで、国際理解を深めることが、僕は非常に大事でないかと、こう思います。もちろん、国によってはまたなかなか、この実際の政治問題としては厳しい国もあるわけなんですけども、それを戦いによって一気に解決しようとするのではなくて、時間はかかってもいいから、じわりじわりと、次の世代次の世代という風に、理解を深めていくことが非常に大事ではないかなと、こう思います。

 

まあね、この小さな沖縄でも、これはこの7・800年くらい前は、散々中山南山北山という風にして、争いがあったわけだ。それから現在のような、世界まできた。と同じように、世界もいつかね、その、歴史や文化を大事にしながら、人類として共通に理解できるような部分を構築していくことが、僕は大事じゃないかなあと、こう思います。

中国に旅行したことがあります。そしたら、日本語学校が、このちょうど買い物をしているところに日本語学校がありました。そこで様子を見ていたら、そこの講師の先生が、「どちらから来ましたか?」と、こう言うから、「琉球から来ましたよ」と言って、そのまた中国と琉球とのね、関係の話を1時間、やったことがあるんですが。学生みんな一生懸命に聞いてもらって、日本は知っているけれども、最も深い関係があったであろう琉球のことはよくわからなかった。ですよね。それがまた尖閣問題が上がってきて。今文献を読み返しているところですけどね。

だから、この若い人たちもいろいろと、自分の身の回りの勉強からだんだん広めて、まあ同じことになりますけど、世界の人たちと仲良くしていくよう努めてもらいたいなあとこう思っております。決して自分が体験してきたようなね、あの生活は繰り返してほしくない、ですね。子供の時代、孫の時代、ひ孫の時代。そういうのが今の思い出です。そのために、このようにしてみなさんと老骨に鞭打ってといいますか、話をしてるんです。

 

 

 

赤 →裏取り

 →疑問

オレンジ →地図

曽野綾子 『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』 WACBUNKO 2006

曽野綾子 『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』 PHP文庫 1992

沖縄タイムス社 『沖縄戦記 鉄の暴風』 沖縄タイムス社 1980年

 岩波書店編『記録・沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店、2012年)

謝花直美 『証言 沖縄「集団自決」-慶良間諸島で何が起きたか 』 岩波書店 , 2008

 防衛研修所編『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』(1968年)

アメリカ陸軍省戦史局編 喜納健勇訳 『沖縄戦 : 第二次世界大戦最後の戦い』 那覇 : 出版舎Mugen , 2011

「美しい死 風潮許せない 元教員体験談」(愛媛新聞2007年9月30日)

 沖縄県・渡嘉敷島で「集団自決」の現場を辛くも生き延びた元教員の吉川嘉勝さん(68)が沖縄県民大会の壇上に立ち、初めて公の場で自らの体験を証言。緊張で何度も声を詰まらせながら「生き地獄」の記憶を伝えた。
 「自分の体験から子どもたちに結論を押しつけたことはない。だが教科書の記述を変えられるのは我慢できなかった」。中学校教員を経て教頭、校長を務め、現在は渡嘉敷村教育委員長。一貫して教育現場に携わってきた吉川さんは、そんな思いから壇上に立つことを決めたという。
 用意した原稿を外れ、ふと語気を強める。「集団自決が崇高で美しい死であったとする最近の風潮には我慢がならないのです」。会場を埋め尽くした人々から拍手が起こった。
 1945年3月27日。米軍の砲弾が飛び交う中、6歳だった吉川さんの一家を含む多くの島民が、身を潜めていた防空壕(ごう)から島の西方にある雑木林に集められた。
 周囲から聞こえ始めた手りゅう弾のさく裂音。叫び声が響いた。惨劇の始まりだった。「自決」を覚悟した家族が円陣を組み、義兄たちが手りゅう弾を爆発させようとしたがうまくいかない。
 その時、母親が叫んだ。「うぬ手りゅう弾やしてぃれー(その手りゅう弾を捨てろ)」。死ぬのはいつでもできる―。一家は生きることを選んだ。しかし多くの島民が、「自決」現場から帰らなかった。
 軍が住民を集めたり、手りゅう弾を配ったりしなければ「自決」はなかった―。吉川さんは「教科書の記述が従来の形に戻るまで協力してがんばろう」と呼び掛け、話を終えた。

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